Sunday, February 12, 2006

さて、今回は、

第一章 神道思想の展開/ 第一節 神道思想の前史/ 1氏族国家と神道

からである。

日本人の神信仰は、有史以前に発していて、その起源は明らかではない。考古学的知識も不十分であり、民俗学的知識に基づく推測は、学的根拠に乏しい。比較神話学や文化人類学も大胆な仮説を提供できるだけである。比較的確実な知識は、「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」などの古文献であると説く。

この著者の立場は、文献学に立っているということがわかる。ただ、文献学の基盤となる文献の批評学(text critic)が、日本の古典などの場合、どれほど信頼できるのか、私など門外漢にはよく分からないという事情もあるのだが。
私は、基本的に、ちゃんとした本文批評を行ない、その文献学に基づきながら考古学などの資料を援用しながら歴史を見ていくという態度を持っていたいと思っているものであるが。

さて、著者によると、先ず注意すべきは、「記」「紀」に記載されている崇神天皇の御代の出来事であろうという。すべてが歴史的事実とは言えないまでも、当時伝えられていた神道に関する古伝承が、この天皇の時代に配当されたのではないかと考えている。

崇神天皇の神祇崇拝に関する多くの物語のうち、神婚譚が先ず注目される。大和平野を見晴らす三輪山に天降った大物主神(意富美和之大神:おおみわのおおかみ)が、山麓の美女、活玉依姫(いくたまよりひめ)と結婚し、子供をもうけ、その子がその神を祭って、その地域を支配する豪族神(みわ)氏の祖先となったという類の説話である。

こうした話は、中央大和だけでなく、「常陸風土記」「薩摩風土記」「近江風土記」など諸地方に広く伝えられているという。

こうした説話は、記紀神話が形成されるまで、幾度か神話の結集が行なわれ諸氏族の降臨・神婚説話が、皇室のそれへと集約されていったことを物語っていると著者は語る。

朝廷をはじめとする諸氏族の神話は、天照大神の皇孫が、三種の神器と天壌無窮の神勅をうけ、中臣・忌部・さるめ・鏡作(かがみつくり)・玉祖(たまのおや)の五部神の他に「八十万神」を従えて高千穂の峰に降臨し、地上の美女、木花開耶姫(このはなさくやひめ)と結婚して、日本全国の統治者である皇室の祖先を生むという「日本書紀」の神話に展開していく。

実は、大陸には、殷王朝の始祖伝説があり、同様の話は、蒙古から朝鮮半島にかけて広がっていて、北方系の始祖伝説が日本でも早くから見られたものか、四・五世紀になって朝鮮半島からの思想的影響を受けて、作られたものかは判断が難しい。

というように、降臨・神婚の神話や説話が語られ、建国神話が発展しつつあったのは、四・五世紀と考えられている。神婚譚の中に「墓」と神婚譚とを関係付けた物語りがあることは、特に注目すべきである。

強力な世襲豪族が出現して、墓において歴史的伝承を、社において神話的伝承を発展させ、神婚譚を通じて神話と歴史を結びつけ、彼らの権力とその世襲とを保証していたものと考えられる。

しかし、神と人とは異質なものとして峻別され、決して混同することなく、「記」「紀」「万葉集」「風土記」のどれを見ても、上代には、神を葬る墳墓はなく、人を祀る神社はなかった。

こうした祖先神ないし氏族神の信仰を持つ諸豪族が、地方地方で対立攻伐し、有力な豪族が諸部族を征服し、さらに、それを大和朝廷が一つ一つ征服していった。

大和朝廷では、皇室内部の祭祀の執行は、中臣・忌部の両氏を当てたが、征服した地方豪族の祭祀は、物部氏が監理したようであるという。

地方の豪族は、それぞれ神宝(祭神之物)を持っていて、毎年神を祭るときには、それを持ち出して、神を祭らせたようである。

大和朝廷は、こうした豪族を征服すると、彼らの祭神之物を取り上げ、朝廷の「祭神之物」を与えて、それで神を祭らせたようである。

物部氏は、そうした地方豪族の祭祀を監理統制する役をしていたようであり、祭祀と政治・軍事が一致していた当時、物部氏は、大和朝廷で行政と軍事の大権を握る家柄であったと思われる。

こうしたことは、大和朝廷の統治下では、諸豪族は、半ば独立が許されていて、氏族割拠の体制が依然温存されていたことを物語ると、著者は書いている。

神道の起源を探るのは、なかなか難しいことではあるのでしょうが、物部氏がこうして表に出て来ることは、なかなか面白いです。

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