Monday, February 13, 2006

さて、続いて、

第一章 神道思想の展開/ 第一節 神道思想の前史/ 2仏教伝来と神道

から。

神仏の本地垂迹思想は、非常に関心のある思想なのだが、今回は、その前史とも言うべき部分.

日本が神信仰と皇室中心に統合されつつあった古墳時代後期、6世紀中ごろ(552年)、半島から仏教が伝来する。

「元興寺縁起流記資材帳(がんごうじえんぎるきしざいちょう)」によると、百済の聖明王は、誕生仏(釈迦像)と釈迦の本生譚を、天皇に献上したという。

この仏(仏神・蕃神)は、一氏族だけで祭られる閉ざされた神とは違って、氏族的割拠を超え、万人に崇められる開かれた神で、その経典は、氏族の団結を超えて、輪廻転生を説くもの。

この思想が普及すると、人は、特定の氏族の一員である前に、先ず人間であり、且つ個人であるという思想が養われ、従来の神信仰とは異なり、氏族割拠を打破し、中央集権的な統一国家を形成する政治活動を支援するものであった。

蘇我氏と物部氏との氏族存亡を賭けた戦いは、単なる信仰上の問題ではなく、政治問題であった。

その争いで、物部氏は滅亡(587年)、蘇我氏と聖徳太子が政権を握る。

太子の執政下、仏教興隆の詔が出され(594)、皇族始め諸氏族共同で寺院が建てられ、仏像が造られ、斎会が催された。また、聖徳太子は、盂蘭盆会を興行し、「盂蘭盆経」を講説させ、輪廻転生の教えを宣伝し、超氏族の精神を鼓吹した。それと同時に、諸氏族の族長たちを率い、天神・地祇を祭ってもいる。

こうした新旧文化の並行現象は、大化の改新(646)があったにもかかわらず、天武天皇の御代まで続く。

天武天皇は、聖徳太子の後を継いで、官立の中央の大寺院(大官大寺)を造った。それとともに、皇室の氏神であった伊勢神宮は、ようやく国家の宗廟たるの位置に上昇してきたようだと語る。

天武天皇は、旧来の姓による氏族社会の機構と新しい個人の器量による律令政治の機構という新旧二要素を上下に積み重ね、その間に有機的関係をつけ、二重構造の国家の体制を作った。

氏上は、一方で、従来の氏族生活の淵に身を沈め、氏の社を祭り、他方、律令制官僚機構の官寺を崇敬することになった。

古い氏族生活を破壊することなく、これを新しい律令国家の基礎に据え直し、古い社会のエネルギーを利用して、新しい国家の体裁を急速に整えていく。

こうして、天神の子孫である現神天皇が、神道祭祀の首長でありながら、自ら「三宝の奴」と称する精神的基盤が準備された。

しかし、この上下に重なる二要素は、元来相矛盾するものであり、それが、奈良時代から平安時代にかけて日本の政治・文化の発展を条件付けた。これは、神道と仏教との関係についても当てはまるという。

奈良時代から平安時代初頭にかけて、先ず「神は仏を護るもの」と考えられた。
称徳天皇は、天平神護元年(765)十一月の宣命の中で、神は仏法を護り尊ぶものだと説いている。
平安時代初め、伝教大師は大山咋神を、弘法大師は丹生明神を、それぞれ延暦寺・金剛峯寺の守護神に仰いでいる。

一方、仏は、神を救うものであると考えられた。天平神護二年(766)に、伊勢太神宮寺に丈六の仏像を作っている。その他多くの神宮・神社にも神宮寺が建てられ、神のために僧を度し、教を読み、写経図仏することが行なわれた。

この時期には、神は衆生の一つで、前生に犯した罪業の報いによって、今生で神に生まれた。それで、今生において、三宝に帰依して来世には神の身を離れたいと願っていると考えられた。
平安時代に入って、神に菩薩号を授けることが行なわれるようになった。
平安時代末期になると、神の本地は、如来(仏)であると説かれるようになる。

こうしたことから、神は、時とともにその地位が高まっていったように見えるが、本地垂迹思想は、神を衆生と考える思想から菩薩号を授ける思想を結んだ線の延長線上にあるのではないという。

本地垂迹思想は、迷える神が覚りを開いて仏になったと説くもの(いわば神道の始覚門)ではなく、仏が神となって現れたと説くもの(いわば神道の本覚門)で、従来の神仏関係とはまったく性格を異にするものである。

このあたりの話は、なかなか面白い。知りたいことは、まだまだたくさんあるが、次回からは、第2節 習合思想の展開 に入る。先ずは神道仏教習合思想である。

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