Tuesday, February 14, 2006

さて、今回から、

第一章 神道思想の展開/ 第二節 習合思想の展開/ 1神道仏教習合思想 1本地垂迹説の形成 - 「耀天記」

から。

神道の仏教浸潤作用とみるべきものが、仏が神となって垂迹すると説く「(神仏習合思想としての)本地垂迹説」である。

この思想の流行は、平安時代前半期にはなく、平安時代後期にまで待たなければならなかった。ことに後三条天皇以降(1069〜)「本地垂迹思想」は、いよいよ発展する。

この頃には、神は仏法によって解脱する衆生の一つだと考える思想は、まったく影を潜める。
平安末期の「梁塵秘抄」には、こんな流行歌が採録されている。
「大宮権現は 思えば救主の釈迦ぞかし 一度も此の地を踏む人は 霊山界会の友とせん」

平安末期から鎌倉時代にかけて、有名な大社の神々は、ほとんどが本地仏を持つようになった。

こうした思想を最も体系的に説いたものが「耀天記」であり、中でも「山王の書」の条である。

「耀天記」が著された承久の乱(1221)の頃、親鸞の「教行信証」が書かれている。本地垂迹思想は、末法に入った永承の頃から浄土教とともに勃興し始め、承久・建武の頃、浄土教とともに完成する。

末法思想は、インドから中国に伝えられ、中国で、末法劣機の衆生を救おうと誓った阿弥陀如来の本願に帰依する浄土教が成立。これには、仏教(理想)を時・所・人(現実)に適応させようとする思考方法 - 時処機相応の論理 - が末法思想と結びついていた。

日本で、末法思想とこの論理が重要な要素として働き始めるのは、平安時代初期以降、最初の人は最澄で、相応する仏教は「法華経」の信仰のみ。

やがて、比叡山延暦寺から浄土教が、時処機相応の仏教として唱導され、恵心僧都源信を生む。

末法の時代に入る信じられた永承七年(1052)頃から浄土教信仰は、いよいよ興隆、法然・親鸞を生む。神道においては「本地垂迹説」が発展完成していく。

インドの仏が、末法辺土の劣悪な日本人相応の姿をとって現れたのが日本の神であり、神は、歴史的にも仏教伝来より先だって現れ、仏教受容の精神的素地を調えた。末法の劣機は、神を崇めることによって、仏の利生(めぐみ)を受けて煩悩を解脱し、極楽に往生できると説く。

本地垂迹思想は、遠く天武天皇の治世に成立した新旧両文化 - 宗教では神道と仏教 - の二重構造が互いに浸潤しあった後に生まれた思想。

三輪神道に端緒を見る両部神道も、日蓮・真宗の神道論も「本地垂迹説」から離れるものではない。

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