Sunday, March 05, 2006

今回は、続いて、

IV 神道基督教習合思想 古学神道の展開 -「本教外篇」「真天主教説略」-

です。

宣長の古学神道を継承し、キリスト教と習合したのが、平田篤胤で、最も注目すべき書は、「本教外篇」である。明末の中国におけるキリスト教書の翻案であった。上巻第二部は、耶蘇会のアレニの「三山論学紀」(1625)、第三部は、宣教師リッチの「畸人十編」(1608)の文を直訳意訳したもの。

現世は「仮の世」で、来世が「本つ世」であると説いて、仏教の輪廻思想や儒教の勧善懲悪思想を排斥した。

宣長において、多神教的、現世教的で主情的色彩をもっていた古学神道は、篤胤に至り、キリスト教と習合することで、一神教的・来世的で、倫理的色彩を持つ神道に変じた。

また、皇祖神中心の古伝説に基づいて皇室における皇祖神崇拝を中心に国民の祖先崇拝を統一して、神道を国家的祖神教に仕上げ、その儀礼を定める。この精神は、明治維新直後の神道政策に継承された。

篤胤は、神道を諸宗教の源とし、わが国の神は、世界の神、神道は、諸教の本教であると称したが、これは篤胤が始めてというわけではない。

篤胤の「本教」は、宣長の古道にキリスト教を習合したものに他ならない。

神基習合神道は、渡辺重石丸に受け継がれ、徹底させられた。「真教説源」「天御中主考」や「真天主教説略」において、天御中主神は、キリスト教の説くところの宇宙最高の主宰神であって、耶蘇教に説く神子(キリスト)は、わが天孫にあたる。耶蘇教の神は偽神であり、耶蘇教は、偽天主教である。神道こそ、「真天主教」であると主張。反本地垂迹的神基習合思想である。

国学とキリスト教が結び付くと言うのは、ちょっと不思議なような感じがしないでもないですが、当時の時代背景などを考えると、そういうこともあり得るかなというところでしょうか。神の概念そのものがキリスト教の影響を受けているということでしょうか。(ただ、私は、神(キリスト教的意味での)でないものを神としたところに、問題があると思ってはいるのですが。キリスト教から見れば、一種のカルト(異端)化傾向。)

ただ、渡辺重石丸のような、反本地垂迹的になると、多くの日本人は追いて行けなかったでしょう。

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