Friday, March 10, 2006

さて、いよいよ第1章最後になりましたが、

V 神道国家主義習合思想 国家神道の成立 - 国定修身教科書

です。

明治維新により封建制度が倒れ、近代国家が成立。朱子学に代って国家主義が新しい時代のイデオロギーとなる。

穂積八束、民法典の編纂を通じて、法律面から家制国家の体制樹立に努力。井上哲次郎らと、教育面から家制国家主義道徳を鼓吹した。

井上哲次郎、明治四十四年(1911) 国民道徳概論

国家主義の傾向
1. 国家社会の基礎として「家」を考え、天皇家は、国民各個の家の宗家(本家)であるから、家の道徳を国の道徳にまで拡大し、忠孝の一致、忠君・愛国の一致を国民道徳の中核とする。
2. 家と国、孝と忠との結合を媒介するものとして、祖先崇拝を取り上げ、歴史・神話の結合を復活させ、これによって、国家の神秘化(神国思想)、天皇の神聖観(神皇思想)を復活させる。

穂積八束 「国民道徳要旨」講演
「わが国においては、君臣同祖であるから皇室は国民の宗家である。家長権の大なるものが国家の主観である。家は、国の小なるもの、国は家の大なるもので、家国一致は、わが国の本領である。ここに忠孝が一致し、忠君が即ち愛国となる。」

家制国家の理念の涵養と「神話と歴史の結合」の復活に対する国家的努力に神道協力。
日本の神社は、すべて皇祖や皇祖神を祭神とすることになった。

明治三十四年(1901)の神社局の設置と、大正十五年(1926)の神社法の制定を通じて、国家が国家神道は宗教でないと定義したことは、神道が、古学神道との習合を解消して、家制国家主義との習合を完成したことを意味する。
かくて、神道は、祖先崇拝教となり、また、従って、天皇崇拝教となった。

第二次大戦後、神道は国家主義との習合を放棄し、思想的に裸になった。

ということです。古学神道との習合を解消して国家主義と習合したということですが、どちらかというと、古学神道を継承しながら、祖先崇拝教、天皇崇拝教になったということだと思っていたのですが、国家神道については、ちょっと分かりにくいですね。
祖先崇拝教ということですが、祖先崇拝というと、儒教を思い起こしたりするのですが、その辺りはどうなんでしょうね。死者の霊の祟りを恐れた原始の神道に復帰ということでもなさそうですが。また、別の書物も読んで、詳しく見てみたいです。
そんな暇は、あまりないかも知れませんが。

Sunday, March 05, 2006

今回は、続いて、

IV 神道基督教習合思想 古学神道の展開 -「本教外篇」「真天主教説略」-

です。

宣長の古学神道を継承し、キリスト教と習合したのが、平田篤胤で、最も注目すべき書は、「本教外篇」である。明末の中国におけるキリスト教書の翻案であった。上巻第二部は、耶蘇会のアレニの「三山論学紀」(1625)、第三部は、宣教師リッチの「畸人十編」(1608)の文を直訳意訳したもの。

現世は「仮の世」で、来世が「本つ世」であると説いて、仏教の輪廻思想や儒教の勧善懲悪思想を排斥した。

宣長において、多神教的、現世教的で主情的色彩をもっていた古学神道は、篤胤に至り、キリスト教と習合することで、一神教的・来世的で、倫理的色彩を持つ神道に変じた。

また、皇祖神中心の古伝説に基づいて皇室における皇祖神崇拝を中心に国民の祖先崇拝を統一して、神道を国家的祖神教に仕上げ、その儀礼を定める。この精神は、明治維新直後の神道政策に継承された。

篤胤は、神道を諸宗教の源とし、わが国の神は、世界の神、神道は、諸教の本教であると称したが、これは篤胤が始めてというわけではない。

篤胤の「本教」は、宣長の古道にキリスト教を習合したものに他ならない。

神基習合神道は、渡辺重石丸に受け継がれ、徹底させられた。「真教説源」「天御中主考」や「真天主教説略」において、天御中主神は、キリスト教の説くところの宇宙最高の主宰神であって、耶蘇教に説く神子(キリスト)は、わが天孫にあたる。耶蘇教の神は偽神であり、耶蘇教は、偽天主教である。神道こそ、「真天主教」であると主張。反本地垂迹的神基習合思想である。

国学とキリスト教が結び付くと言うのは、ちょっと不思議なような感じがしないでもないですが、当時の時代背景などを考えると、そういうこともあり得るかなというところでしょうか。神の概念そのものがキリスト教の影響を受けているということでしょうか。(ただ、私は、神(キリスト教的意味での)でないものを神としたところに、問題があると思ってはいるのですが。キリスト教から見れば、一種のカルト(異端)化傾向。)

ただ、渡辺重石丸のような、反本地垂迹的になると、多くの日本人は追いて行けなかったでしょう。

Saturday, March 04, 2006

さて、今回は、

III 神道国学習合思想 古学神道の形成 - 玉鉾百首 -

私が、神儒習合に違和感を覚えたのと、同じような違和感を覚えた人も江戸時代にはいたようではある。

徳川時代後期に国学は起こる。古くは、鎌倉時代に発し、室町時代に発達した日本学(倭学)の精神的伝統を継ぐものではあったが、元禄時代以降の儒学界に流行していた古学復興の機運とその文献的研究方法とに影響されて成立。

伊藤仁斎は、山崎闇斎の極めて学問的な方法を「論語」「孟子」に応用して、古義学を樹立。
荻生徂徠は、仁斎の方法を六経に施して「古文辞学」を提唱。
契沖。「万葉集」の訓詁・注釈によって倭学に復古の機運。倭学と儒学の新しい学風を受けて、国学と国学校の創立を提唱。
賀茂真淵。国学を文化の理想・規範を古代におく道学として徹底。
荷田春満。儒教を人為の理屈として排斥。神道は、ただ自然無為の大道である。からごころを清くはなれて神をただうやまい拝礼するのが古(いにしえ)のまことの道と説く。

真淵は、儒教を排斥するのに老荘の思想を借りる。老荘思想のさかしらをきらい自然を尊ぶ思想が、儒仏排斥に理論的根拠を与える。(本居宣長)

本居宣長は、老荘思想をも退け、ひたすら「神の道のままなる道」を求める。文献学的に明らかにされた「古事記」の内容が、そのまま神の本質に外ならない信じ、それをそのまま彼の信仰とした。この信仰・思想を「玉鉾百首」に詠んだ。
彼は、「古事記」の中にのみ神道があると信じ、「古事記」の文献学的研究に没頭し古神道の神髄に迫ろうとした。

しかし、「古事記」が日本の古代統一国家形成時代の政治が色濃く反映されていることに思う及ばず、「古事記」「神代巻」の研究成果をすべて原始神道の内容と信じた結果、「原始封建制度を倒して古代統一国家を樹立するためのイデオロギーとしての神道思想」へ復古することになった。故に、徳川幕藩体制を倒して、近代統一国家を形成すべき思想的原動力となることができた。

古学神道とは、国学と習合した神道に他ならない。

Tuesday, February 28, 2006

少し間が空いてしまったが、今回は、

2. 神道儒教習合思想 儒家神道の発達 -「神道伝授」「陽復記」「垂加翁神説」-

私にとっては、神道というと、どうしても神仏習合思想というイメージが強くて、江戸以降の習合神道には、違和感を覚えるのだが、思想的と言う意味では、こちらの方が重要なのかもしれない。

徳川時代の朱子学者は、朱子と同様に、周子の「太極図説」によって宇宙の形而上学的根拠として「太極(天理)」の存在を前提とした。太極は、天地万物をつくる造物主であるとともに、天地万物を支配する主宰者でもある。

人は、元来小天地(小太極)であることを自覚し、天性を養い、格物致知によって天理をきわめ、天地の秩序を正し、天人合一の境地に入らなければならない。ここに人道の極地がある。

日本の朱子学徒は、天人の宗教的関係を人間の社会生活の中に徹底的に組み込むことに成功した。朱子学は、倫理道徳の教えであるばかりでなく、社会法、現世の宗教であった。

この新しい宗教は、仏教を追い出そうとした。

林羅山「神道伝授」(1648)は、従来の諸神道の所説を要領よく紹介。神仏習合思想を激しく攻撃し、自説を主張。

神は形はないが霊がある。気が作るから。この気を生じ、神を生ずるものは理であり、真実にして、あらゆることの根源である。この理を知るを神道という。仏教者はこの理を知らない。善を知って行ない、悪を知って行なわない、君に忠をつくし親に孝をつくし、身分の高さ卑しさの区別を知る。これを神道の実理という。神道人道は一理である。だから人間の理がわかれば、神道も分かる。

神道を「卜祝随役神道」と「理当心地神道」とに分け、後者を「此の神道は即ち王道なり」と述べている。羅山にとっては、神道とは儒道に他ならなかった。

こういうのを読むと、どうしても神道とは違うという感じを抱いてしまうのは、私だけなのだろうか。

神道の立場から、神道を還俗させようとしたのが、度会延佳である。伊勢神宮に伝わる祭祀のうちにとけこんでいる神道固有の思想を「神道五部書」と通じ、儒学ことに易理を借りてロゴス化しようとした。
「陽復記(1650)」 易理をもって「日本書紀」「神代記」を解釈しようとする。
神道が易と一致するのではなく、易が神道と一致する。
神道は日本の道、儒道は震旦の道、仏道は天竺の道である。
日本人は神道に従うのが公道。その心得は「正直」にある。この正直によって凡夫も神明の域に達する。

羅山は、儒学の立場から神儒一致を説く。吉川惟足は、神道の立場から神儒の一致を主張。度会延佳は、神道固有の精神を発揮しようとした。

延佳、惟足の思想を受け、神儒「唯一」の説を提唱したのが、山崎闇斎。闇斎は、敬虔な朱子信仰者。主要な書物は、「神代巻風葉集」「中臣祓風水草」「垂加翁神説(1707)」である。

闇斎の神道論の要は「天人唯一」の思想である。従来の儒家神道が「神代記」を「太極図説」で説くのに対し、「神代記」はそのまま直ちに「太極図説」である。「神代記」と「太極図説」は「唯一」である。
「造化の根本原理(太極)」即ち「皇室の祖神たる天人唯一の天照大神」の道を神道と称し、それを導くのが猿田彦大神の教えであると言う。
「唯一」は、思想であるとともに論理であり、この論理によって朱子学と神道とを「唯一」とした。しかし、この論理は、甚だしいこじつけを生んだ。また、一方で、一種の神秘的な雰囲気を与え、一種の象徴主義を生ぜしめた。

というようなもの。私などは、どうしても、儒学(儒教)は儒学(儒教)、神道とは違うというイメージを抱いてしまうのだが、世の中の人々はどうなのだろう。

Saturday, February 18, 2006

続いて、

第一章 神道思想の展開/ 第二節 習合思想の展開/ 1神道仏教習合思想


2神道の自覚 - 神道五部書

日本文化が承久・建武の間に、やっと自己を表現できるようになり、この時期に神道でも「神道五部書」 - 「宝基本記」「御鎮座伝記」「御鎮座次第記」「御鎮座本記」「倭姫命世記」 - が成立。

後世、外宮神道の経典として「禁断の書」と言われ、神官でも60才を超えるものでなければ見ることは許されなかった。

五部書の作成の動機に、外宮の内宮に対する祭神格上げの意図があるとしても、歴史的意義は別のところにある。

五部書は、心身の清浄(内清浄・外清浄)を説き、「正直」の徳を神道の主要な徳目として強調する。内七言や忌言葉や六色の禁法を説いて、死穢や仏臭を忌む神道の伝統的態度を堅持。

神仏の関係では、人の心が劣悪になったので、天照大神は、託宣をやめ、日の小宮に隠れ、衆生の教化を仏に委ねたが、必要があれば、いつでも託宣を下すであろうと説いて、神と仏とを峻別している。

神道古来の「祭としての思想」を意識して、ロゴス化しようとしたが、その手段として易や老荘の思想を借りた。しかし、仏教臭を排斥しようとする意図からであり、易や老荘の思想と習合しようと企図したものとは考え難い。

と、著者は書いておられるのだが、この辺りは、再考の余地があるのではないかと思ったりする。というのは、福永光司なんかの詳細な道教研究などから、日本の奈良・平安時代の道教の影響を証明するような研究成果が多数出ているような気がするから。
参考サイト:「神道と道教思想−神道思想の形成と道教−」

「神道五部書」を生んだ外宮から、度会家行が「類聚神祇本源」を著す。仏教の混交が認められる。
北畠親房は、陰陽五行の説で日本の開闢を説き、儒仏二教にも寛容であった。
一条兼良の三教一致の神道論や卜部兼倶の唯一神道を準備するもの。

しかし、これらは、神道の立場から儒仏老三教の諸説を習合している点で、従来の仏教から神道を説いた本地垂迹としての神仏習合思想とは性質を異にする。


3反本地垂迹説の成立「唯一神道名法要集」

神道五部書を回転軸に本地垂迹思想を反本地垂迹思想に裏返す。
慈遍「旧事本紀玄義」如来は「皇天の垂迹」であると言う。
天台僧光宗「渓嵐拾葉集」天台の恵心流では、山王(日吉神社)は本で、三塔(東塔・西塔・横川)は迹である。これを本下迹高と言う。
「太平記」天照大神が、あるときは垂迹の仏、あるときは本地の神にかえると説き、これを迹高本下の成道であると述べる。

卜部兼倶の「唯一神道名法要集」は、こうした思想の流れを受け、それらを美しい体系に築き上げた神道思想史上、稀に見る書物。

在来の神道を「本迹縁起神道」と「両部習合神道」に分け、新たに「元本宗源神道」を提唱する。在来の習合神道説を始め、仏教、ことに真言の教えや、儒教・道教の説を習合するが、神道を基本とする立場を失っていない。

Tuesday, February 14, 2006

さて、今回から、

第一章 神道思想の展開/ 第二節 習合思想の展開/ 1神道仏教習合思想 1本地垂迹説の形成 - 「耀天記」

から。

神道の仏教浸潤作用とみるべきものが、仏が神となって垂迹すると説く「(神仏習合思想としての)本地垂迹説」である。

この思想の流行は、平安時代前半期にはなく、平安時代後期にまで待たなければならなかった。ことに後三条天皇以降(1069〜)「本地垂迹思想」は、いよいよ発展する。

この頃には、神は仏法によって解脱する衆生の一つだと考える思想は、まったく影を潜める。
平安末期の「梁塵秘抄」には、こんな流行歌が採録されている。
「大宮権現は 思えば救主の釈迦ぞかし 一度も此の地を踏む人は 霊山界会の友とせん」

平安末期から鎌倉時代にかけて、有名な大社の神々は、ほとんどが本地仏を持つようになった。

こうした思想を最も体系的に説いたものが「耀天記」であり、中でも「山王の書」の条である。

「耀天記」が著された承久の乱(1221)の頃、親鸞の「教行信証」が書かれている。本地垂迹思想は、末法に入った永承の頃から浄土教とともに勃興し始め、承久・建武の頃、浄土教とともに完成する。

末法思想は、インドから中国に伝えられ、中国で、末法劣機の衆生を救おうと誓った阿弥陀如来の本願に帰依する浄土教が成立。これには、仏教(理想)を時・所・人(現実)に適応させようとする思考方法 - 時処機相応の論理 - が末法思想と結びついていた。

日本で、末法思想とこの論理が重要な要素として働き始めるのは、平安時代初期以降、最初の人は最澄で、相応する仏教は「法華経」の信仰のみ。

やがて、比叡山延暦寺から浄土教が、時処機相応の仏教として唱導され、恵心僧都源信を生む。

末法の時代に入る信じられた永承七年(1052)頃から浄土教信仰は、いよいよ興隆、法然・親鸞を生む。神道においては「本地垂迹説」が発展完成していく。

インドの仏が、末法辺土の劣悪な日本人相応の姿をとって現れたのが日本の神であり、神は、歴史的にも仏教伝来より先だって現れ、仏教受容の精神的素地を調えた。末法の劣機は、神を崇めることによって、仏の利生(めぐみ)を受けて煩悩を解脱し、極楽に往生できると説く。

本地垂迹思想は、遠く天武天皇の治世に成立した新旧両文化 - 宗教では神道と仏教 - の二重構造が互いに浸潤しあった後に生まれた思想。

三輪神道に端緒を見る両部神道も、日蓮・真宗の神道論も「本地垂迹説」から離れるものではない。

Monday, February 13, 2006

さて、続いて、

第一章 神道思想の展開/ 第一節 神道思想の前史/ 2仏教伝来と神道

から。

神仏の本地垂迹思想は、非常に関心のある思想なのだが、今回は、その前史とも言うべき部分.

日本が神信仰と皇室中心に統合されつつあった古墳時代後期、6世紀中ごろ(552年)、半島から仏教が伝来する。

「元興寺縁起流記資材帳(がんごうじえんぎるきしざいちょう)」によると、百済の聖明王は、誕生仏(釈迦像)と釈迦の本生譚を、天皇に献上したという。

この仏(仏神・蕃神)は、一氏族だけで祭られる閉ざされた神とは違って、氏族的割拠を超え、万人に崇められる開かれた神で、その経典は、氏族の団結を超えて、輪廻転生を説くもの。

この思想が普及すると、人は、特定の氏族の一員である前に、先ず人間であり、且つ個人であるという思想が養われ、従来の神信仰とは異なり、氏族割拠を打破し、中央集権的な統一国家を形成する政治活動を支援するものであった。

蘇我氏と物部氏との氏族存亡を賭けた戦いは、単なる信仰上の問題ではなく、政治問題であった。

その争いで、物部氏は滅亡(587年)、蘇我氏と聖徳太子が政権を握る。

太子の執政下、仏教興隆の詔が出され(594)、皇族始め諸氏族共同で寺院が建てられ、仏像が造られ、斎会が催された。また、聖徳太子は、盂蘭盆会を興行し、「盂蘭盆経」を講説させ、輪廻転生の教えを宣伝し、超氏族の精神を鼓吹した。それと同時に、諸氏族の族長たちを率い、天神・地祇を祭ってもいる。

こうした新旧文化の並行現象は、大化の改新(646)があったにもかかわらず、天武天皇の御代まで続く。

天武天皇は、聖徳太子の後を継いで、官立の中央の大寺院(大官大寺)を造った。それとともに、皇室の氏神であった伊勢神宮は、ようやく国家の宗廟たるの位置に上昇してきたようだと語る。

天武天皇は、旧来の姓による氏族社会の機構と新しい個人の器量による律令政治の機構という新旧二要素を上下に積み重ね、その間に有機的関係をつけ、二重構造の国家の体制を作った。

氏上は、一方で、従来の氏族生活の淵に身を沈め、氏の社を祭り、他方、律令制官僚機構の官寺を崇敬することになった。

古い氏族生活を破壊することなく、これを新しい律令国家の基礎に据え直し、古い社会のエネルギーを利用して、新しい国家の体裁を急速に整えていく。

こうして、天神の子孫である現神天皇が、神道祭祀の首長でありながら、自ら「三宝の奴」と称する精神的基盤が準備された。

しかし、この上下に重なる二要素は、元来相矛盾するものであり、それが、奈良時代から平安時代にかけて日本の政治・文化の発展を条件付けた。これは、神道と仏教との関係についても当てはまるという。

奈良時代から平安時代初頭にかけて、先ず「神は仏を護るもの」と考えられた。
称徳天皇は、天平神護元年(765)十一月の宣命の中で、神は仏法を護り尊ぶものだと説いている。
平安時代初め、伝教大師は大山咋神を、弘法大師は丹生明神を、それぞれ延暦寺・金剛峯寺の守護神に仰いでいる。

一方、仏は、神を救うものであると考えられた。天平神護二年(766)に、伊勢太神宮寺に丈六の仏像を作っている。その他多くの神宮・神社にも神宮寺が建てられ、神のために僧を度し、教を読み、写経図仏することが行なわれた。

この時期には、神は衆生の一つで、前生に犯した罪業の報いによって、今生で神に生まれた。それで、今生において、三宝に帰依して来世には神の身を離れたいと願っていると考えられた。
平安時代に入って、神に菩薩号を授けることが行なわれるようになった。
平安時代末期になると、神の本地は、如来(仏)であると説かれるようになる。

こうしたことから、神は、時とともにその地位が高まっていったように見えるが、本地垂迹思想は、神を衆生と考える思想から菩薩号を授ける思想を結んだ線の延長線上にあるのではないという。

本地垂迹思想は、迷える神が覚りを開いて仏になったと説くもの(いわば神道の始覚門)ではなく、仏が神となって現れたと説くもの(いわば神道の本覚門)で、従来の神仏関係とはまったく性格を異にするものである。

このあたりの話は、なかなか面白い。知りたいことは、まだまだたくさんあるが、次回からは、第2節 習合思想の展開 に入る。先ずは神道仏教習合思想である。