Tuesday, February 28, 2006

少し間が空いてしまったが、今回は、

2. 神道儒教習合思想 儒家神道の発達 -「神道伝授」「陽復記」「垂加翁神説」-

私にとっては、神道というと、どうしても神仏習合思想というイメージが強くて、江戸以降の習合神道には、違和感を覚えるのだが、思想的と言う意味では、こちらの方が重要なのかもしれない。

徳川時代の朱子学者は、朱子と同様に、周子の「太極図説」によって宇宙の形而上学的根拠として「太極(天理)」の存在を前提とした。太極は、天地万物をつくる造物主であるとともに、天地万物を支配する主宰者でもある。

人は、元来小天地(小太極)であることを自覚し、天性を養い、格物致知によって天理をきわめ、天地の秩序を正し、天人合一の境地に入らなければならない。ここに人道の極地がある。

日本の朱子学徒は、天人の宗教的関係を人間の社会生活の中に徹底的に組み込むことに成功した。朱子学は、倫理道徳の教えであるばかりでなく、社会法、現世の宗教であった。

この新しい宗教は、仏教を追い出そうとした。

林羅山「神道伝授」(1648)は、従来の諸神道の所説を要領よく紹介。神仏習合思想を激しく攻撃し、自説を主張。

神は形はないが霊がある。気が作るから。この気を生じ、神を生ずるものは理であり、真実にして、あらゆることの根源である。この理を知るを神道という。仏教者はこの理を知らない。善を知って行ない、悪を知って行なわない、君に忠をつくし親に孝をつくし、身分の高さ卑しさの区別を知る。これを神道の実理という。神道人道は一理である。だから人間の理がわかれば、神道も分かる。

神道を「卜祝随役神道」と「理当心地神道」とに分け、後者を「此の神道は即ち王道なり」と述べている。羅山にとっては、神道とは儒道に他ならなかった。

こういうのを読むと、どうしても神道とは違うという感じを抱いてしまうのは、私だけなのだろうか。

神道の立場から、神道を還俗させようとしたのが、度会延佳である。伊勢神宮に伝わる祭祀のうちにとけこんでいる神道固有の思想を「神道五部書」と通じ、儒学ことに易理を借りてロゴス化しようとした。
「陽復記(1650)」 易理をもって「日本書紀」「神代記」を解釈しようとする。
神道が易と一致するのではなく、易が神道と一致する。
神道は日本の道、儒道は震旦の道、仏道は天竺の道である。
日本人は神道に従うのが公道。その心得は「正直」にある。この正直によって凡夫も神明の域に達する。

羅山は、儒学の立場から神儒一致を説く。吉川惟足は、神道の立場から神儒の一致を主張。度会延佳は、神道固有の精神を発揮しようとした。

延佳、惟足の思想を受け、神儒「唯一」の説を提唱したのが、山崎闇斎。闇斎は、敬虔な朱子信仰者。主要な書物は、「神代巻風葉集」「中臣祓風水草」「垂加翁神説(1707)」である。

闇斎の神道論の要は「天人唯一」の思想である。従来の儒家神道が「神代記」を「太極図説」で説くのに対し、「神代記」はそのまま直ちに「太極図説」である。「神代記」と「太極図説」は「唯一」である。
「造化の根本原理(太極)」即ち「皇室の祖神たる天人唯一の天照大神」の道を神道と称し、それを導くのが猿田彦大神の教えであると言う。
「唯一」は、思想であるとともに論理であり、この論理によって朱子学と神道とを「唯一」とした。しかし、この論理は、甚だしいこじつけを生んだ。また、一方で、一種の神秘的な雰囲気を与え、一種の象徴主義を生ぜしめた。

というようなもの。私などは、どうしても、儒学(儒教)は儒学(儒教)、神道とは違うというイメージを抱いてしまうのだが、世の中の人々はどうなのだろう。

Saturday, February 18, 2006

続いて、

第一章 神道思想の展開/ 第二節 習合思想の展開/ 1神道仏教習合思想


2神道の自覚 - 神道五部書

日本文化が承久・建武の間に、やっと自己を表現できるようになり、この時期に神道でも「神道五部書」 - 「宝基本記」「御鎮座伝記」「御鎮座次第記」「御鎮座本記」「倭姫命世記」 - が成立。

後世、外宮神道の経典として「禁断の書」と言われ、神官でも60才を超えるものでなければ見ることは許されなかった。

五部書の作成の動機に、外宮の内宮に対する祭神格上げの意図があるとしても、歴史的意義は別のところにある。

五部書は、心身の清浄(内清浄・外清浄)を説き、「正直」の徳を神道の主要な徳目として強調する。内七言や忌言葉や六色の禁法を説いて、死穢や仏臭を忌む神道の伝統的態度を堅持。

神仏の関係では、人の心が劣悪になったので、天照大神は、託宣をやめ、日の小宮に隠れ、衆生の教化を仏に委ねたが、必要があれば、いつでも託宣を下すであろうと説いて、神と仏とを峻別している。

神道古来の「祭としての思想」を意識して、ロゴス化しようとしたが、その手段として易や老荘の思想を借りた。しかし、仏教臭を排斥しようとする意図からであり、易や老荘の思想と習合しようと企図したものとは考え難い。

と、著者は書いておられるのだが、この辺りは、再考の余地があるのではないかと思ったりする。というのは、福永光司なんかの詳細な道教研究などから、日本の奈良・平安時代の道教の影響を証明するような研究成果が多数出ているような気がするから。
参考サイト:「神道と道教思想−神道思想の形成と道教−」

「神道五部書」を生んだ外宮から、度会家行が「類聚神祇本源」を著す。仏教の混交が認められる。
北畠親房は、陰陽五行の説で日本の開闢を説き、儒仏二教にも寛容であった。
一条兼良の三教一致の神道論や卜部兼倶の唯一神道を準備するもの。

しかし、これらは、神道の立場から儒仏老三教の諸説を習合している点で、従来の仏教から神道を説いた本地垂迹としての神仏習合思想とは性質を異にする。


3反本地垂迹説の成立「唯一神道名法要集」

神道五部書を回転軸に本地垂迹思想を反本地垂迹思想に裏返す。
慈遍「旧事本紀玄義」如来は「皇天の垂迹」であると言う。
天台僧光宗「渓嵐拾葉集」天台の恵心流では、山王(日吉神社)は本で、三塔(東塔・西塔・横川)は迹である。これを本下迹高と言う。
「太平記」天照大神が、あるときは垂迹の仏、あるときは本地の神にかえると説き、これを迹高本下の成道であると述べる。

卜部兼倶の「唯一神道名法要集」は、こうした思想の流れを受け、それらを美しい体系に築き上げた神道思想史上、稀に見る書物。

在来の神道を「本迹縁起神道」と「両部習合神道」に分け、新たに「元本宗源神道」を提唱する。在来の習合神道説を始め、仏教、ことに真言の教えや、儒教・道教の説を習合するが、神道を基本とする立場を失っていない。

Tuesday, February 14, 2006

さて、今回から、

第一章 神道思想の展開/ 第二節 習合思想の展開/ 1神道仏教習合思想 1本地垂迹説の形成 - 「耀天記」

から。

神道の仏教浸潤作用とみるべきものが、仏が神となって垂迹すると説く「(神仏習合思想としての)本地垂迹説」である。

この思想の流行は、平安時代前半期にはなく、平安時代後期にまで待たなければならなかった。ことに後三条天皇以降(1069〜)「本地垂迹思想」は、いよいよ発展する。

この頃には、神は仏法によって解脱する衆生の一つだと考える思想は、まったく影を潜める。
平安末期の「梁塵秘抄」には、こんな流行歌が採録されている。
「大宮権現は 思えば救主の釈迦ぞかし 一度も此の地を踏む人は 霊山界会の友とせん」

平安末期から鎌倉時代にかけて、有名な大社の神々は、ほとんどが本地仏を持つようになった。

こうした思想を最も体系的に説いたものが「耀天記」であり、中でも「山王の書」の条である。

「耀天記」が著された承久の乱(1221)の頃、親鸞の「教行信証」が書かれている。本地垂迹思想は、末法に入った永承の頃から浄土教とともに勃興し始め、承久・建武の頃、浄土教とともに完成する。

末法思想は、インドから中国に伝えられ、中国で、末法劣機の衆生を救おうと誓った阿弥陀如来の本願に帰依する浄土教が成立。これには、仏教(理想)を時・所・人(現実)に適応させようとする思考方法 - 時処機相応の論理 - が末法思想と結びついていた。

日本で、末法思想とこの論理が重要な要素として働き始めるのは、平安時代初期以降、最初の人は最澄で、相応する仏教は「法華経」の信仰のみ。

やがて、比叡山延暦寺から浄土教が、時処機相応の仏教として唱導され、恵心僧都源信を生む。

末法の時代に入る信じられた永承七年(1052)頃から浄土教信仰は、いよいよ興隆、法然・親鸞を生む。神道においては「本地垂迹説」が発展完成していく。

インドの仏が、末法辺土の劣悪な日本人相応の姿をとって現れたのが日本の神であり、神は、歴史的にも仏教伝来より先だって現れ、仏教受容の精神的素地を調えた。末法の劣機は、神を崇めることによって、仏の利生(めぐみ)を受けて煩悩を解脱し、極楽に往生できると説く。

本地垂迹思想は、遠く天武天皇の治世に成立した新旧両文化 - 宗教では神道と仏教 - の二重構造が互いに浸潤しあった後に生まれた思想。

三輪神道に端緒を見る両部神道も、日蓮・真宗の神道論も「本地垂迹説」から離れるものではない。

Monday, February 13, 2006

さて、続いて、

第一章 神道思想の展開/ 第一節 神道思想の前史/ 2仏教伝来と神道

から。

神仏の本地垂迹思想は、非常に関心のある思想なのだが、今回は、その前史とも言うべき部分.

日本が神信仰と皇室中心に統合されつつあった古墳時代後期、6世紀中ごろ(552年)、半島から仏教が伝来する。

「元興寺縁起流記資材帳(がんごうじえんぎるきしざいちょう)」によると、百済の聖明王は、誕生仏(釈迦像)と釈迦の本生譚を、天皇に献上したという。

この仏(仏神・蕃神)は、一氏族だけで祭られる閉ざされた神とは違って、氏族的割拠を超え、万人に崇められる開かれた神で、その経典は、氏族の団結を超えて、輪廻転生を説くもの。

この思想が普及すると、人は、特定の氏族の一員である前に、先ず人間であり、且つ個人であるという思想が養われ、従来の神信仰とは異なり、氏族割拠を打破し、中央集権的な統一国家を形成する政治活動を支援するものであった。

蘇我氏と物部氏との氏族存亡を賭けた戦いは、単なる信仰上の問題ではなく、政治問題であった。

その争いで、物部氏は滅亡(587年)、蘇我氏と聖徳太子が政権を握る。

太子の執政下、仏教興隆の詔が出され(594)、皇族始め諸氏族共同で寺院が建てられ、仏像が造られ、斎会が催された。また、聖徳太子は、盂蘭盆会を興行し、「盂蘭盆経」を講説させ、輪廻転生の教えを宣伝し、超氏族の精神を鼓吹した。それと同時に、諸氏族の族長たちを率い、天神・地祇を祭ってもいる。

こうした新旧文化の並行現象は、大化の改新(646)があったにもかかわらず、天武天皇の御代まで続く。

天武天皇は、聖徳太子の後を継いで、官立の中央の大寺院(大官大寺)を造った。それとともに、皇室の氏神であった伊勢神宮は、ようやく国家の宗廟たるの位置に上昇してきたようだと語る。

天武天皇は、旧来の姓による氏族社会の機構と新しい個人の器量による律令政治の機構という新旧二要素を上下に積み重ね、その間に有機的関係をつけ、二重構造の国家の体制を作った。

氏上は、一方で、従来の氏族生活の淵に身を沈め、氏の社を祭り、他方、律令制官僚機構の官寺を崇敬することになった。

古い氏族生活を破壊することなく、これを新しい律令国家の基礎に据え直し、古い社会のエネルギーを利用して、新しい国家の体裁を急速に整えていく。

こうして、天神の子孫である現神天皇が、神道祭祀の首長でありながら、自ら「三宝の奴」と称する精神的基盤が準備された。

しかし、この上下に重なる二要素は、元来相矛盾するものであり、それが、奈良時代から平安時代にかけて日本の政治・文化の発展を条件付けた。これは、神道と仏教との関係についても当てはまるという。

奈良時代から平安時代初頭にかけて、先ず「神は仏を護るもの」と考えられた。
称徳天皇は、天平神護元年(765)十一月の宣命の中で、神は仏法を護り尊ぶものだと説いている。
平安時代初め、伝教大師は大山咋神を、弘法大師は丹生明神を、それぞれ延暦寺・金剛峯寺の守護神に仰いでいる。

一方、仏は、神を救うものであると考えられた。天平神護二年(766)に、伊勢太神宮寺に丈六の仏像を作っている。その他多くの神宮・神社にも神宮寺が建てられ、神のために僧を度し、教を読み、写経図仏することが行なわれた。

この時期には、神は衆生の一つで、前生に犯した罪業の報いによって、今生で神に生まれた。それで、今生において、三宝に帰依して来世には神の身を離れたいと願っていると考えられた。
平安時代に入って、神に菩薩号を授けることが行なわれるようになった。
平安時代末期になると、神の本地は、如来(仏)であると説かれるようになる。

こうしたことから、神は、時とともにその地位が高まっていったように見えるが、本地垂迹思想は、神を衆生と考える思想から菩薩号を授ける思想を結んだ線の延長線上にあるのではないという。

本地垂迹思想は、迷える神が覚りを開いて仏になったと説くもの(いわば神道の始覚門)ではなく、仏が神となって現れたと説くもの(いわば神道の本覚門)で、従来の神仏関係とはまったく性格を異にするものである。

このあたりの話は、なかなか面白い。知りたいことは、まだまだたくさんあるが、次回からは、第2節 習合思想の展開 に入る。先ずは神道仏教習合思想である。

Sunday, February 12, 2006

さて、今回は、

第一章 神道思想の展開/ 第一節 神道思想の前史/ 1氏族国家と神道

からである。

日本人の神信仰は、有史以前に発していて、その起源は明らかではない。考古学的知識も不十分であり、民俗学的知識に基づく推測は、学的根拠に乏しい。比較神話学や文化人類学も大胆な仮説を提供できるだけである。比較的確実な知識は、「古事記」「日本書紀」「風土記」「万葉集」などの古文献であると説く。

この著者の立場は、文献学に立っているということがわかる。ただ、文献学の基盤となる文献の批評学(text critic)が、日本の古典などの場合、どれほど信頼できるのか、私など門外漢にはよく分からないという事情もあるのだが。
私は、基本的に、ちゃんとした本文批評を行ない、その文献学に基づきながら考古学などの資料を援用しながら歴史を見ていくという態度を持っていたいと思っているものであるが。

さて、著者によると、先ず注意すべきは、「記」「紀」に記載されている崇神天皇の御代の出来事であろうという。すべてが歴史的事実とは言えないまでも、当時伝えられていた神道に関する古伝承が、この天皇の時代に配当されたのではないかと考えている。

崇神天皇の神祇崇拝に関する多くの物語のうち、神婚譚が先ず注目される。大和平野を見晴らす三輪山に天降った大物主神(意富美和之大神:おおみわのおおかみ)が、山麓の美女、活玉依姫(いくたまよりひめ)と結婚し、子供をもうけ、その子がその神を祭って、その地域を支配する豪族神(みわ)氏の祖先となったという類の説話である。

こうした話は、中央大和だけでなく、「常陸風土記」「薩摩風土記」「近江風土記」など諸地方に広く伝えられているという。

こうした説話は、記紀神話が形成されるまで、幾度か神話の結集が行なわれ諸氏族の降臨・神婚説話が、皇室のそれへと集約されていったことを物語っていると著者は語る。

朝廷をはじめとする諸氏族の神話は、天照大神の皇孫が、三種の神器と天壌無窮の神勅をうけ、中臣・忌部・さるめ・鏡作(かがみつくり)・玉祖(たまのおや)の五部神の他に「八十万神」を従えて高千穂の峰に降臨し、地上の美女、木花開耶姫(このはなさくやひめ)と結婚して、日本全国の統治者である皇室の祖先を生むという「日本書紀」の神話に展開していく。

実は、大陸には、殷王朝の始祖伝説があり、同様の話は、蒙古から朝鮮半島にかけて広がっていて、北方系の始祖伝説が日本でも早くから見られたものか、四・五世紀になって朝鮮半島からの思想的影響を受けて、作られたものかは判断が難しい。

というように、降臨・神婚の神話や説話が語られ、建国神話が発展しつつあったのは、四・五世紀と考えられている。神婚譚の中に「墓」と神婚譚とを関係付けた物語りがあることは、特に注目すべきである。

強力な世襲豪族が出現して、墓において歴史的伝承を、社において神話的伝承を発展させ、神婚譚を通じて神話と歴史を結びつけ、彼らの権力とその世襲とを保証していたものと考えられる。

しかし、神と人とは異質なものとして峻別され、決して混同することなく、「記」「紀」「万葉集」「風土記」のどれを見ても、上代には、神を葬る墳墓はなく、人を祀る神社はなかった。

こうした祖先神ないし氏族神の信仰を持つ諸豪族が、地方地方で対立攻伐し、有力な豪族が諸部族を征服し、さらに、それを大和朝廷が一つ一つ征服していった。

大和朝廷では、皇室内部の祭祀の執行は、中臣・忌部の両氏を当てたが、征服した地方豪族の祭祀は、物部氏が監理したようであるという。

地方の豪族は、それぞれ神宝(祭神之物)を持っていて、毎年神を祭るときには、それを持ち出して、神を祭らせたようである。

大和朝廷は、こうした豪族を征服すると、彼らの祭神之物を取り上げ、朝廷の「祭神之物」を与えて、それで神を祭らせたようである。

物部氏は、そうした地方豪族の祭祀を監理統制する役をしていたようであり、祭祀と政治・軍事が一致していた当時、物部氏は、大和朝廷で行政と軍事の大権を握る家柄であったと思われる。

こうしたことは、大和朝廷の統治下では、諸豪族は、半ば独立が許されていて、氏族割拠の体制が依然温存されていたことを物語ると、著者は書いている。

神道の起源を探るのは、なかなか難しいことではあるのでしょうが、物部氏がこうして表に出て来ることは、なかなか面白いです。

Saturday, February 11, 2006

さて、筑摩書房刊 「日本の思想 第14巻 神道思想集」の解説、石田一良著「神道の思想」であるが、先ずは、まえがき「日本文化の展開と神道思想史」から。

この論では、日本の文化史を、古代・中世・近世という分類ではなく、中国文化伝来以後の日本の文化史を、承久・建武(1221-1334)、特に文永・弘安の役(1274-1281)をもって2つに分ける分類法を提唱している。

それ以前が古代で、それ以後が近世であり、中世という概念は日本文化史には明確に存在しないという立場だろうか。

古代は、典型主義文化 (律令による古代国家、公家の世界観や芸術)
近世は、日本の風土、水稲農業に根ざす函数主義文化 (式目・法度による封建国家、武家の世界観や芸術)

と言う風に説明している。典型主義とか函数主義という用語は、私自身は、少々理解できていないのであるが。

さらに、古代を、

1:中国文化を模倣した奈良時代とその日本化が始まった平安時代前期(古代律令時代)
2:日本化の進展した平安時代中期(摂関時代)
3:日本化の極端に進んだ平安時代末期(院政時代)と鎌倉時代前期(源氏将軍時代)

と言う風に分けている。

神道に関して言うと、神道が多少とも体系ある思想を持ち始めたのは、平安時代末期、院政期に入ってからであり、この頃、本地の仏が神となって垂迹するという「神仏習合思想としての本地垂迹思想」が成立したと述べている。

以後の習合神道は以下の通りである。

1:鎌倉・室町時代の神道仏教習合神道 (本地垂迹神道、両部神道や吉田神道など)
2:徳川時代初期の神道儒教習合神道 (林羅山や山崎暗斎などの、いわゆる儒教神道)
3:徳川時代後期の神道国学習合神道 (本居宣長などの古学神道)
4:幕末維新期の神道基督教習合神道 (平田篤胤や渡辺重石丸などの平田神道)
5:明治・大正・昭和時代の神道国家主義習合神道 (いわゆる国家神道)

古来の神道は、習合する思想の方向から、

1:仏教・儒教やキリスト教のような外国から伝来した思想と習合した神道
2:国学や家制国家主義思想のような外国思想の影響を受けながら、日本で生まれた思想を習合した神道

に分けられると言う。

承久・建武時代を境に、

1:外来の思想(仏教)が主体となって外来思想から神道を説明した時代 (外来思想が神道を包摂した時代)
2:神道が主体となって、外来思想(仏教・儒教ないしキリスト教)を借りて、自らを説明しうるようになった時代 (神道が外来思想を包摂した時代)

とに分けられるとも述べている。

これは、古代における華やかな中国文化やその国風文化の底に、太古以来の素朴な神信仰が潜行していて、それが、承久・建武時代に歴史に現れたことを意味するのだという。

神道は、この時期(易・老荘などの思想を借用しながら)自らを自覚し、ロゴス化した伊勢外宮に「神道五部書」を成立せしめた。
この「五部書」の思想的態度は、近世初頭の伊勢外宮の度会神道に継承され、伊勢山田に古学神道を発生させ、その後も、常に神道思想の展開の中核に存し、神道から仏・儒・基の影響を払拭して神道の原始(本来)の姿を復帰させようとする。
これは、伊勢神宮が(ことに外宮が、さらに言うと、外宮を通じて内宮が)、神仏・神儒ないし神基習合思想に対し、神道原始の姿を保持発揚しようとしたことを意味しているように思われる。

と、最後には書いてある。

一つ疑問に思ったのは、易・老荘思想(いわゆる道教)は、外来思想として分類されていないような気がするのだが、それは何故?

今日は、日本の建国記念の日である。それとは、何の関係もないが、木曜日に久々に県立図書館に出かけた。本当に久しぶりの図書館であったのだが、今回、筑摩書房刊 「日本の思想 第14巻 神道思想集」というのを借りてきた。

その解説の石田一良著「神道の思想」を要約してみようと思っている。なかなか興味深く面白い内容である。